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インド旅日記その7:毎朝ヤギの生首を撥ねるカーリー寺院

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2009年9月5日土曜日(コルカタ:カーリー寺院など)


朝の5時に目が覚めると、同部屋で寝ていた6人ほどの日本人の若者達がいそいそと着替えている。
この時間に行動してるというのは、たぶんマザーテレサのボランティアだろうか。 これはちょっと誤算だった。『怖いものみたさ』という下衆な動機でしかないのだが、コルカタに来た理由の一つとしてマザーテレサの施設でボランティアをするというのも考えていたのだ。


しかし、ボランティア受付は月・水・金の夕方で、実際に始められるのはその次の日から、私が着いたのが金曜の夜なので、ボランティアするためには火曜日まで最低でもあと4日間は滞在しないといけない。あまり薦められたことではないらしいが、実際に施設に行って手伝ってる人に頼めば、直接手伝いもできるという話は聞いたことがあった。そんなわけで、実は昨日それらしい人がいないか宿の中をうろついて探しはしたのだ。


しかし、目に入るのはタバコを吸いながら椎名リンゴの話しかしない若者達ばかり。まったくもって、ボランティアの話を切り出す状態じゃなかった。


それなのに今実際にその”椎名リンゴ達”が、日の出よりも早くおきだして、できるだけ音をたてないように気を使って準備しているではないか。

『しまった、人は見かけによらんもんだ』真っ暗な中で準備をしている彼らに今更『テレサの家に連れてってください』とは頼めない。

仕方がない、時間はあまり無駄にできないので、こちらも彼らの後に早起きして女神カーリーを祭ったヒンドゥーの寺院:カーリーテンプルに行くことにした。


毎朝ヤギの生首を撥ねるカーリー寺院

ここは毎朝生きたヤギの首を刎ねる儀式でその名を知られており、毎朝6時~8時半の間に断首が行われているという。

(写真:カーリー寺院の境内、基本的に写真禁止のところが多い)
KaliTemple.jpg


境内に着いたのは朝の6時、夜はあけて間もないのに中は既に大勢の人でごった返している。境内は土足厳禁ということで、花輪やお供え物を売る売店の一つに靴を預かってもらい裸足で歩いた。
雨が降っていたので売店の前の椅子で雨宿りしていると、数頭のヤギが連れてこられて私の座っている椅子につながれた。生贄ということで私は一頭だけ捧げられるのかと思ったが、聞いてみると日によってばらつきはあるが、5~10頭くらいのヤギが毎日生きたまま首を切られるのだという。


私の隣にいた黒ヤギはたいそう人懐っこくて、私の指を噛んだり角を体にこすりつけたりしている。目がくりっとしてとても可愛い。ただ、ほんの一時間ほどすれば彼の首は胴体と切り離されている。そのことを彼は知っているんだろうか。


(写真:このヤギさんの首も撥ねられた)
yagisan.jpg


雨宿りをしている間売店の親父とカタコトの英語で話しをした。彼はヤギに負けず劣らず人懐っこかった。身振り手振りを交えて一生懸命話しをしていると、他の参拝客が近づいてきた。すると彼はコカコーラのマークが入った汚いペットボトルを手にした。中には茶色くにごった汚水が入っている。それを彼は参拝客の手にかけてやる。すると客はありがたそうにその水を拝領して頭にぺちゃぺちゃつけてヒンドゥーの神に祈りをあげるのだ。

『ガンガーのHolly Water(聖なる水)だ』

と彼は胸をはって言った。

こんな汚い水が?? まさかと思ったが何らかの効力はあるのかもしれない。私ももらって頭にひたし、手をあわせて少し祈った。


しばらくすると、どこにでもいる野良犬が店に近寄ってきた。主人は何の迷いもなくそのペットボトルを手にして、迷惑そうに”シッ”と言いながらボトルを振り上げ犬に向かって『聖水』をかけてあちら側に追いやった。
むむむ、ホーリーウォーターと言った舌の根も乾かぬうちにその水を犬にぶっかけている・・・ その気持ち、私の器で理解しようというのは土台無理な話なのだろう。

こんなふとしたことでも、少しづつ価値観が崩壊するというか混乱するのである。いったい何が正しくて何が間違っているのか?


ドブで沐浴する人とドブでお金を探す少年

カーリー寺院を出て、近くにあるガート(沐浴場)まで歩いた。ほんの10メートルほどの幅の川にヘドロが堆積して”日本のドブ”と全く同じにおいを発している。

カーリーガートでお金を拾ってる少年、この水で沐浴できますか?
kaligaht.jpg

水面に浮いたゴミに混じってヒンドゥーの老人が沐浴をしている。ここは後で見たバラナシのガンガーよりもはるかに不潔だった。その中で少年が二人、両手でいっぱいにヘドロをすくってはゴミをより分けより分けしている。何をしているのかと思い間近でその行動を見ていた。15分くらいのうちに、彼は二枚のコインを拾い上げ、それを泥水でゆすいでは口の中に咥えまた作業を続けた。 このガートは有名だから、お布施なのか験かつぎなのか、時折川の中に小銭を投げ入れる人がいるらしい、彼らはそれをただひたすら探し続けているのである。

ガートを出て3ルピー(6円)のチャイを一杯、5ルピーのカレーのようなものを食べて腹ごなしをした。 

存在感のあるカレー屋(?)の店主
curry_mitaina.jpg
curry_mitaina2.jpg



『死を待つ人』と『死を待たない人』が同じに見えた

辺りを歩いていると、付近の人からすぐ近くにマザーテレサの施設があるよと教えてもらった。ラッキーなことに、マザーテレサの管理する幾つかの施設のうち、私が一番興味をもっていた『死を待つ人の家』がそこにあった。

siwomatsuhitonoie.jpg


勝手に入ってもいいものか迷ったがせっかくなので入り口を入ってみると、担架のような簡易ベッドが広間のような場所に並べられていて、そこに”死を待つ人たちが寝そべっていた” 思ったほど不潔でもないし、思ったよりも死臭がただよっているわけでもない。


周りを見回すと幾人かの修道女が忙しく立ち回り何かの準備をしている。そのほか何人かの西洋人と3人の若い日本人が目に入った。軽く挨拶して世間話をすると、彼らは日本の大学生で、『ツアーに申し込んだ』のだという。 しかし、あまりやることがないからここに一時間ほど座っているのだと言った。 


ツアー?? ボランティアすることがツアー? まるで意味がわからん。 この日、9月5日は偶然にもマザーテレサの命日だということで特別なミサの準備をしているらしい。普段の光景ではないのは残念だが、時間の制約のある私が肉体的にそこにとどまっても仕方がないことは理解できたので、いくばくかの寄付を渡してそこを出た。


施設を出る時にも”担架”に寝転んだまま並べられている”死を待つ人”たちを見た。穴があくほど見たが、誰も今すぐ死ぬといった様子ではなかった。

外は相変わらずのインドの喧騒で、ものすごい人と野良牛と犬が歩いていた。そしてその道の端にたくさんの寝ている人たちがいる。彼らの目の光と肌の色から図る生命力は、私がたった今マザーテレサの『死を待つ人の家』で見たものとまったく同じといっていいほど差がなかった。


では、この中に入っている人と入っていない人の差はなんなんだ?


私はまた混乱した。

テーマ : インド旅日記 - ジャンル : ブログ

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