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『嫁はん』の呼称

『嫁はん』の呼称にも色々あって、Feminism の発展してきた現在ではどの言葉を使うか慎重に検討しなければならない。今まで敬語として立派に活躍してきた奥さん(奥様)という単語も、女は奥に引っ込んでいるものという概念を含んでいるので、使い方を誤ると失礼になる。

そういうことに一番気を使っていると思われる古い友人などは電話口で『うちの妻が・・・ ツマが・・・』と話していた。K大博士課程で差別なんかを研究している彼が、その”妻”という表現にたどり着くまでに要した道のりは想像に難くない。


それでも、己の嫁はんを相手に紹介する時は、自分と嫁はんの関係だけ考えればいいのでまだ楽だ。『愚妻』『かあちゃん』『かみさん』『女房』『うちのやつ』『俺の奥さん』で通用する。


問題なのは相手の嫁はんのことを尋ねる時だ。

目上の人に『先生の奥様もお元気にお過ごしでしょうか?』と尋ねようとして、心の中で一瞬(こいつは女性を蔑視しとるな)と思われるんではないかと身構えてしまう。

これが英語ならワイフ・パートナーという一言で住むのだがら、日本語の難しさをつくづく感じてしまう。

ちなみに恩師の『嫁』に対して使ってはいけない順に

『先生のかみさん』
『先生の女房』
『先生の嫁さん(嫁はん)』
『先生の花嫁(花をつけても駄目)』
『先生の奥様(奥さん、奥方、XXX)
『先生の愛する人(愛してない可能性が高いので)』
『先生の伴侶』

で、考えたのだが

『先生の結婚相手』というのはどうだろうか??

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美穂缶のこと

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トップアイドルだった中山美穂の全盛期に、視聴者に『美穂缶』を抽選でプレゼントするというザ・ベストテンの企画があった。

美穂缶というのは、缶の中に一輪の花と中山美穂の息を吹き込み即座に密閉し缶詰化したもので、スタジオに大きな機械を持ち込んで作業を行っていたのを今でも鮮明に覚えている。

その時に司会のアナウンサー(童顔だったのは覚えているが名前は思い出せない)が、「中山美穂さんの唇が花に触れたのをはっきりと見ました!」と興奮しながら実況していた。

もし今だったら、プレゼント発送前からヤフーオークションで高値で売買されているんだろうと思うのは野暮な発想だろうか

当たり前のことが認められた嬉しさ

人民兵の住むワシントン州で、念願だった法律が制定された。
以下の文章を読んでもらいたい

■禁煙条例901条、今月8日から施行

Seattle Post-Intelligencer は、今月8日、ワシントン州全体を対象とした禁煙条例901条が施行されると報じた。

この法律の施行により、インディアン・カジノを除き、レストラン5,300軒、ボウリング場98軒、バー1,160軒、職場、公共の建物内での喫煙が禁止されることになる。American Lung Association が全米で最も厳格と評するこの新しい法律では、すべての職場はもちろん、職場の出入り口・窓から25フィート以内での喫煙も禁止されている。


このことを知って狂喜し、天に舞いを捧げたのは言うまでもない。

喫煙というのは嗜好などの問題ではなく、第三者に対する完全な暴力なので、今の今まで認められなかったのが不思議だがようやくここまで来たかという感じ。

そもそも日本を離れたのは、タバコの煙を吸わされない=不特定の相手から暴力を受けない、という基本的人権すら守られない現状に我慢がならなかったから。吸っている人間が癌になろうがその場で卒倒して死のうが全くかまわないが、周囲の人間に不快な思いをさせたり、ひいては健康を害す権利などあるわけがない。

嫌煙権という言葉は一方的に他人から暴力を振るわれない権利と読みかえることができる。こんな馬鹿な言葉が存在するのがそもそもおかしい。

認められるのは喫煙権であるべきなのだ。

周囲500メートルに誰もおらず、且つ数時間の間そこに人が通りかからないような開放空間、または個人の所有する家屋の中においてのみ喫煙する権利が与えられるというもの。

繰り返すが、人の側でタバコを吸うというのは、相手を殴っているのと同じ行為である。殴られない権利というものが存在してはいけないが、殴る権利というのは特定のルールの元に認められるべきである。たとえばボクシングのように、互いに納得した条件の下にお互いに殴りあうのは一向に構わない。ただ、ボクサーだからといって人ごみでシャドーボクシングをしたり相手を威嚇するようなことが認められるはずはない。

ごたごた書いたが、今日は嬉しかった。

本当に嬉しかった。

当たり前のことが当たり前に認められたこの嬉しさよ

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雨にも負けず

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正確には「雨ニモマケズ」というタイトルであって、それは”雨”という漢字一文字を”ニモマケズ”という片仮名五文字が後から追随してくるわけで。

それはきっと、

ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

という賢治の、華やかな都会や上面の人間関係についてゆけない彼の、一種土着信仰のようなものが、”ニモマケズ”という片仮名言葉特有の抑揚の無さに適応したからだと思われる。

その詩の中で、

東に病気の子供をみまい、
西に疲れた母の稲を背負い、
北に争いごとを諌め、

そうありたいと賢治が願うことまでは子供の時から分かっていたが、今日何年かぶりで読み返す機会があり

南ニ死二サウナ人アレバ
行ツテコハガラナクテモイイヨトイヒ

という部分ではっとした。

今までこの部分が人民兵には意味不明だったのだ。
この「コハガラナクテモイイ」という台詞を、私は長い間
「おいら怪しい者じゃないよ」という妖怪人間ベロと同じ目線で考えていた。

つまり、死にかけている老人を看取るために遠路はるばる出かけて行った自分を見て怖がる老人の図。 見知らぬ相手に恐怖を感じる老人に「こわがらなくてもいいですよ、決して危害は加えませんから」
と表明することだと信じていたわけだ。


で、恥ずかしながらこの詩を最初に読んで20ウン年経てようやく今日理解できた。

この「コワガラナクテモイイ」というのは、死に対する恐怖をやわらげてあげるということで、あまねく全ての宗教に共通する最大のテーマと同じであるということ。

黒澤映画の傑作「どん底」の中でも、死期の迫った老人が苦しむ様をみて旅の男が、「浄土は素晴らしいよ」と説いてやるシーンが出てくる。それを聞いた老女の言葉が素晴らしい。病苦、貧乏、家族の謗りを受けながら、どん底にあえぐ彼女は

「でもね、浄土がそんなにいいところなら、ここでもう少しだけでもこの苦しみを味わっていてもいいかなと思うんですよ」と。

上り坂と下り坂の数が同じであるように、産まれてから死ぬまでを足し合わせたらどんな人間でも0になるはず、なのに不公平にできてるような感じがするのはなぜだろう(-_-;)

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