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たまには数字とお金のことでも話してみるか(下)

世界放浪前後:パチンコ屋でバイト。給与は過去最高の月給25万円。半年ほどかけてお金を貯めて旅に出るつもりが交通事故に遭い示談金で15万円いただいて予定より早く切り上げることができた。数ヶ月貯めたお金約40万円を片手にモスクワ行きのアエロフロートに乗る。節約に節約を重ね、半年後に帰国。総予算のうち10万円は3泊4日の北朝鮮行きツアーで消えたことを考えたら驚異的にケチ臭い旅だった。


留学時代:旅先で知り合った人に誘われ米国ワシントン州シアトルに渡る。人生初の居候生活をはじめ、ここにきてようやく3食を食べられるようになった。ビザの都合で留学生になることを選択。校内で週に20時間までの仕事が認められていたので、リサイクル&清掃部門で働く。時給7ドルスタートで約2年の間に8ドル50セントまであがった。


お仕事一社目:某日系会社~時給10ドルでプログラマのようなことをする。楽しい職場だったが、ほどなくしてアメリカ支社が解散を命ぜられた。その後元上司は移動型ペット用グルーミングサービスを始め、同僚の元弁護士のプログラマはIT業界に残ることを決めた。私はまったく違うことをしようか、このままITの道に進もうか日々悩んで過ごした。


二社目:海外日系新聞社:文章を書いて生きていたいと思ったので、直接電話をかけて面接をしてもらう。見習いの一ヶ月間(無給)を経て、採用不採用を決定するという条件だった。喜んで通っていたものの、同僚のDTPが月1200ドル、ライター月1000ドル、セールス月700ドル、経理:時給7ドル、保険無し・交通費他諸手当無しという悪条件を目の当たりにする。

一ヶ月後の面談で『うちはフルタイムで700ドルスタート(最低賃金確実に割ってますw)だけど、あなたにはそんなに払えないわね』と言われた。この新聞社とはその後も良好な関係を保ち、ボランティア記者ではあったがイチロー・松井・荒川静香さんの取材や、各種イベントを記者席から何度も参加させていただいた。


三社目:某日系IT会社:月給1800ドル。”長時間働く社員が良い社員だ”という社長の間違った思い込みから、仕事のある無しに関わらずほぼ全社員が晩の11時近くまで働くという面白い仕事場。一番忙しかった3ヶ月ほどは毎日午前1~3時(車社会なので終電がない)まで、土日もほぼ全て会社に行っていた。社長は超のつくほど短気なワンマンで、社員はみな恐怖に怯えて誰も話しかけないような状況だったので、きっとこの人は寂しいのだろうと思い気楽に話しかけたら思いきり嫌われてクビとなる。

クビになった直後、以前に発覚した私のミスから他の同僚4人に対し一ヶ月間30%の減俸が言い渡された。それを聞いてブチ切れした私は会社を訴え、当時シアトル日系社会で話題となる。些細なミスで相手からも逆に訴えられてドロ沼に。半年後に”示談”という形でXXXXXドルを手にするが、成功報酬制の弁護士に60%を持っていかれた。


四社目:マイクロソフト(契約):年4万8000ドル。契約社員だが面接で(お金は関係ありません)と言ってオファーされたのがこの額。誰でもできるようなものすごい楽な仕事を与えられ、これで月4000ドルももらえるというのが信じられなかった。またアメリカのIT業界では珍しくもないのだが、業務用大型冷蔵庫にコーラ、スプライト、7アップからオレンジジュース、牛乳にいたるまで大量に用意されていてそれが全て無料で飲み放題というのに狂喜乱舞した。このあたりで生活のレベルが確実に上がった。


五社目:米系IT会社:年5万8000ドル→年6万ドル。組み込み型携帯電話の開発や、Javaを利用したサーバーの開発などに携わる。一年後に2000ドルの昇給があったが、業績が悪化し2年で退社。住み慣れたシアトルを離れロサンゼルスに下るきっかけとなった。


六社目:米系IT会社1年目:年8万ドル ロサンゼルスに下って数社面接を受けたが芳しい返事がなく、ようやくオファーをくれたのが現在の会社。8万ドルというオファーを受けて『時給に換算したら4000円・・・こんなにももらっていいのか!』と感激、この恩に報いるべく身を粉にして働く。ところが、隣の席に座っていた同僚のFront End DeveloperのAlex君(22歳)の給料が7万5000ドルであることに驚く。

その後クーデターが起きて上司、Techinical Leadがごっそりと退社。迷った挙句私は会社に残るほうを選択した。


入社後一年:上がごっそりと抜けたことで責任がかかり、立場は人を育てるというかなんというか、Technical Leadに昇進、仕事場のエースとなった。大車輪の活躍を武器にして給与交渉でかけあうも、15%が昇給の限界だからと説明され年9万2000ドルになる。


入社後二年:この会社は人の出入りが激しく、相変わらず大量解雇があったり、プチクーデターがあったりしたが、それなりに楽しく過ごしていた。前述のAlex君(23歳)はこの頃にクビになり、『実は俺は10万4000ドルもらっていた。お前は少なすぎるぞ』と告白された。クーデターの後、部署内に一人だけ残った彼はそのことを逆手にとり会社と交渉、彼のキャリアでは考えられないくらいの好条件を引き出していた。その話を聞いて今更ながらアメリカに来たんだなぁと感慨深く思った。

また、これもAlex君からの告げ口で、私の給与が自分の部下よりも年に1万5000ドルくらい低いことを知らされショックを受ける。その年の交渉は強気で行くも、やはり日本人気質の押しの弱さか思ったほど伸びず、10万3500ドルで契約更改。こんなにもらってもいいのかと思う反面、23歳の駆け出しよりもまだ少ないということが心のどこかに引っかかる。

入社後三年

前年の給与交渉のことが会社に対する不信となる。そんな折、他社から引きぬきの話がありトントン拍子に話が決まる。仕事の開始日の話まで整ってから、退社の相談に行くとあの手この手で引き止められた。

噂には聞いていたカウンターオファーというものをいただいて、相手の提示した給料よりも少し余分に出すという。仕事場の雰囲気が好きなことと尊敬できる同僚がいたのでさんざん迷った挙句残ることにする。ついに年収12万ドル(時給6000円、一分間鼻くそをほじくっていたら100円もらえる計算)となった。



・・・ とこれが現在までの半生の大まかな流れであるが、つまらない詐欺にひっかかって人が一生かかってもらう退職金に近いくらいの借金ができたり、マイナスのことも含めたらまだまだ書きたいことは山ほどある。

今の仕事も似たようなレベルのことをインド人が私の10分の1の値段で請け負っていく。こういった額をもらえる=アメリカの中流階級でいられるのもこの先長くて5年くらいではなかろうか。その後どうするか、まだ見えていないし決めてもいない。

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たまには数字とお金のことでも話してみるか(中)

まだしばらく貧乏生活が続きます・・・

浪人時代:センター試験の点が予想よりも低かったので二次試験を受けることもなく浪人決定。これは二次試験を受けるだけで3万円くらいかかるという経済的理由によるもの。

予備校・塾など行けるお金はなかったので、いろいろと調べたらある小さな予備校が授業料免除で特待生を募集していた。クラスメートの西川君(仮名:数学オリンピック日本代表最終選考まで残った秀才)に頼んで”替え玉受験”をお願いすると快諾してくれた。替え玉から帰ってきた彼が『簡単やった全問正解ちゃうか?』と言ったとおり、最高の結果で無事に特待生の栄誉をもらったのだが、教材費の5万円を払ってくださいと言われて払えず・・・結局行かなかった。

まだバブルの余韻が残っていた時代で、酔虎伝という居酒屋の深夜メンバーでバイト、時給1100円ほどになった。


大学時代:入学式の後、次から次に同窓会だの研究協力費だのなんたら協賛金だのの要請があったが全て断った。唯一同窓会だけは『当会に入らないと入学を認められません』と言われたので仕方なく1万円5000円くらい払ったのだが、”同窓会に入らないと学校に入学できない”というのがいまだに理解できない。あれは本当だったんだろうか。気になるところではある。肝心の同窓会は卒業後ン年するが一度もお誘いがない。

大学一年の最初に様々なクラブやサークルの新入生歓迎コンパがあり、毎日のようにハシゴする。タダ飯・タダ酒を浴びるように飲んでいたら5月の最初に体調不良で入院。A型肝炎と診断される。退院後、同級生で歳が一回り上の岡田さん(仮名)が『こいつには飯を食わせてやらんと死ぬ』と宣言し、その後4年にわたって毎日昼ごはんを食べさせてくれた。

生意気さかりの私に、彼は本当に毎日学食で腹いっぱい食べさせてくれた。大きなトレーを二枚持った私は、ご飯大盛り、アジフライ、冷奴、サラダ、ヒジキの煮物、揚げ出し豆腐、唐揚げ、焼きサンマ・・・ そいういったものをトレーに載るだけのせて、何一つ残さず平らげた。岡田さん(仮名)が毎日払っていた昼飯代は1700円~2100円くらい。


授業料は年間41万8000円、高校の時から支出を自分で賄っていたので、生活自体ができる自信はあったが、この授業料は痛かった。高校時代のように減免を求めるが、一学期の成績が悪いことを理由に断られた。

ある年のこと、授業料半年分の支払いが遅れそうになり、延長期日当日になんとか持参したら既に支払われていると言われた。事務方に詰め寄ってどういうことかと説明を求めたら『保護者に請求しました』と言う。離縁しているのに保護者もへったくれもない。期日までに払っているのに勝手に”他人”に私の学費を払わせたのは許せない。お金を返しに行きなさいと言ったのにそれはできないというので、その場で21万4000円を燃やして事務員に灰を投げつけた。今考えるとあまりこういったことはするべきではない。

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たまには数字とお金のことでも話してみるか(上)

渡米してそろそろ12年、干支も一回りしたので、私の人生にまつわる数字(お金)に関して書いてみようかと思う。

幼少時代:近所にあった不動産屋の前を通りかかった時にこれはどういう仕事なのかと聞いた人民兵に対して母親は
『ええか、額に汗もせんで右から左に物を流すだけで儲けてる仕事はみんなヤクザみたいなもんや、ああいうのには絶対になったらあかんで』
と言いはなった。子供心に妙に印象的だったこの言葉、これ以降かなり長い間「お金は汚い」という先入観が私につきまとうことなる。

幼稚園時代一日に50円の小遣いをもらって、20円のウルトラマン消しゴム、10円のチロルチョコ、10円の飴と、一回10円のクレーンゲーム:チャンスラーをやっていた。ほぼ毎日このクレーンをやったのだが一度も景品をとれたことがなかった。

小学校1年:自ら申し出て小遣いを月に500円に減額してもらう。そのことを当時日割り50円の小遣いをもらっていた同級生に話したら

『ええなーー人民兵は500円ももらえて』と羨ましがられたので、

「いやいや、お前は50円かける30日で月にして1500円、俺のざっと3倍くらいもらっとるやないか」と言ったら友達のお母さんがびっくりして『人民兵君は賢いねぇ』と言った。

その頃から周りがアホにみえてアホにみえて仕方なかった。

小学校2年:父親と母親が離婚、父親が家を去る時にテレビを持っていってしまったので、その後3年間家にテレビがなかった。ちなみに次にテレビを買ったのは母親がオリンピックを見たかったから。


小学校~中学校:母親は公文の先生をして人民兵を育ててくれた。収入は低かったが住む家はあったのでずいぶん助かったのだと思う。外食に行くことも、何かをねだって買ってもらったことも、綺麗な服を着たこともほとんどなかったが、貧乏だといった僻んだ気持ちは一切なかった。これは今でも感謝している。当時みんな持ってたファミコンはなかったが、人生で数少ないおねだりをして、MSX(Cannon V-10)のパソコンを買ってもらったことがあった。2万9800円


高校1年:とある事情で、母親と離縁。
一月の寒い日の朝 『40万円用立ててはもらえないか、それで縁を切りましょう』と提案したら、驚いたことに数日後にちゃんとそのお金を渡してくれた。いまだにあのお金がどこから出てきたのか理解できない。

北野人民学校にほど近い大阪は十三の文化住宅で一人暮らしを開始。礼金・敷金=15万円、家賃月2万7000円。下の階にヤクザが住んでいてさんざんいびられた。トイレはついているがお湯は出なかった。その他、電話の加入料(NTTさん返してください)8万6000円などが主な出費。

当時やっていたバイトは北新地のお好み焼き屋(時給750円

家を出てから半年ほど家計簿をつけて全支出を書きだしたら、家賃・光熱費抜きで月にたった4000円~6000円くらいだった。食事は一日一食、米を二号炊いてマヨネーズ、卵掛けご飯、具のないチャーハンのいずれかで食べた。とにかく若くて健康だったので(食費は無駄)と切り捨てて、昼飯は抜きにするか50円アイスで済ませた。クラスメートに(これ俺の昼飯)と言って笑ってたが、自分で可哀想だとか俺は恵まれていないと思ったことは一度もなかった。ただし、ちゃんと栄養を摂っていないのでサッカー部で走っても走ってもまったくスタミナはつかなかった。今考えたら当たり前のこと。この食生活は日本を去る25歳くらいまで続く。

当時風呂屋は190円とか210円とかだったと思うが、そんなものに行けるはずもなく、洗濯もほとんどせず、台所の真水で週に3度頭を洗って、夏は濡れタオルで体を拭いて、冬はそれこそ数ヶ月単位でシャワーを浴びることもなかった。それでも不潔だと感づかれなかったのは、多感なあの時期にある意味すごいことではなかろうか。

高校2年:授業料(年約8万円)の減免を受けるために市役所で母親の所得証明をこっそり取得、110万円と書いてあって『これ一年分ですか?』と思わず担当者に聞いてしまった。

この辺から学校をけっこうサボりがちになる。学校・部活・バイトの他に週末はボランティアみたいなことをやっていた。

高校3年:再び授業料減免のため市役所に向かう。この年の母親の所得が84万円。『これ一年分ですか?』と再び担当者に聞いてしまった。

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インド旅日記その24:さらばインド

前の日記
2009年9月17日木曜日:インド最後の日
インド滞在の最終日、何か思い出になることをしようということでヘンナ・タトゥーを入れることにした。
このヘンナ・タトゥーといのは、ナチュラルな染料の一種で、ミソハギ科の低木の葉を乾燥させて粉末にして水に溶いたものでできている。このペーストを体に塗布することで約2週間ほどのあいだ擬似刺青体験ができるというものだ。
高価なものは両手両足に何時間もかけてびっしりと描きこんでいくが、そこまではできないので、左手上腕部のみ50ルピー(100円)でやってもらうことにした。

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メインバザールの街角には、ヘンナをやってくれる人はたくさんいて、私には細かい差は分からないがかなりレベルが高いように見えた。
担当してくれた24歳のお兄ちゃんは、とても真剣なまなざしで4分ほどもかけて立派な紋様を描いてくれた。彼は毎日夕方6時から晩の10時までそのあたりでタトゥーをやっているのだそうで、客は多い日で一人か二人、0人の日もあるという。そんな彼と雑談しているうちにだんだんと夜が更けてきた。どうやら今日の客は私一人だったらしい。彼が同業者の友人と笑いながら話している。手にはフリトレーのスナック菓子、定価12ルピーと書かれてある。私がまだ食べたことない種類だったので興味深くパッケージを見ていると、少しわけてくれた。『これ美味しいから気にいってるんだ、そんなに高くないからお前も買ったらいいよ』そういって彼は笑いながら去っていった。

昼間に彼がどんな仕事をしているのかは知らない。ただ、彼が住んでいるアパートの家賃は2000ルピーだと言っていた。そして今日の夜の売上は私からのたった50ルピーだ。
どうして彼は12ルピーのスナック菓子を安いと思えるのだろうか・・・ 私は何だか少し切ない気分になった。


夕方7時、ニューデリーの飛行場までプリペイドのリクシャーで行く。130ルピー也、乗合タクシーなら200ルピーが相場だが、最後は少し節約しようとあまり一般的でないこの方法を選んでみた。
ところが、街の雑踏を離れて近代的な高架道路を通ってみると、リクシャーというのがいかに非力かわかる。時速100キロ近い速度でびゅんびゅん飛ばしていく他の車に対して、こちらは贔屓目に見ても60キロが精一杯。周りを見回してみてもリクシャーなど全く走っていない。高速道路を原付走行してるようなもので、何度も事故に巻き込まれそうになって、そのたびに身の縮む思いをした。


最後くらい去りゆくインドの夜景を眺めて感傷的な気分に浸ろうと思っていたが、そんなわけでまたしてもバタバタのうちに終わってしまった。


((劇終))

この後、人民兵は香港・マカオに二泊した後、ロサンゼルスに帰国します。
(香港・マカオ編をご希望の方がいればご連絡ください。考慮します)

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インド旅日記その23:ニューデリー:インド最大の売春地帯に行ってみる後編

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2009年9月15日火曜日~17日木曜日:ニューデリー

外に出て左右を見回してみるが、そこはやはり中古車を扱う古工場の集合にすぎない。耳を澄ませても階段から再び彼女達の声や気配をかぎとることはできなかった。ありえないことだが、一瞬自分が夢でも見たのではないかという気がしてくる。念のため10メートル歩いて別の階段を上がってみたところ、デジャヴかと思うほど全く同じ光景が目の前に繰り広げられた。今度は二度目なのでこちらも少し余裕をもって観察できる。やはりというか、日本人の感覚からするとそこにいる女性は80%が肥満に分類され、30%がおばさん以上で、70%は不美人であり、60%はとても色が黒く、5%くらいはなんらかの病気持ちに見え、つまりは100%無理という状況だった。


それでも、さすがにインド最大とうたわれているだけのことはあって、このGBロードは規模という点ではなかなかに大きい。とにかく歩いても歩いても10メートルごとに階段があり、そこを上っていくと幾つかの部屋があり、各部屋には10人から30人の間で”女の子”が待機しているのだ。過去これだけの規模で売春婦を見たのはカンボジアのセブンティ・ストリートくらいか。(もう閉鎖されたと聞くが、彼の地では地平線の果てまで両側売春宿で一軒あたり5人から20人くらいの女の子がいた。あの時私は何百人というい売春婦の中を練り歩いていたのだ)

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(写真:関係ないがニューデリーで美味しかった屋台の写真・・・GBロードの写真があまりないもので)


しかしながら、何軒行っても結果は同じ『物理的に不可能』を再確認する退屈なルーチンワーク。汗だくになりながら階段を上り下りするのはいいかげん辛くなってきた。もうこれで最後にしよう、そう思いながら最後に上った階段で見た光景は、それまで上ってきた10本近い階段とは少し違った。
いつものように二階にたくさんの売春婦を見た後、三階への階段を上る途中が中二階になっている。今風にいうとスキップ・フロア形式というのだろうか、何気なく覗いてみると、リノリウムの床の上にあろうことかたくさんの山羊がいた。あのメェーと鳴くヤギである。それがざっと見て20頭近く、床の上に蒔かれたペレットのような餌を無心に食べていた。ヤギの向こうに座っていた肥ったおばさんは腐ったような目でこちらを無表情に見ている。


私の中のチンケな常識ではありえない光景に軽い戦慄を覚えたが、ジロジロ見るのも失礼なのでそのまま通り過ぎ、二人の大人がすれ違えるかどうかの狭い階段を3階に行くと、またたくさんの売春婦がいた。売春婦達は今までと同様、こちら遠慮ない視線で睨め回し、私も同様に不自然な会釈をしながらその場を失礼した。戻りの階段で、再びヤギの大群を見て私は動揺した。一階の外は中古車部品販売、二階は売春婦でその上がヤギ、そして三階が売春婦ときている。心が弱っていたからだろうか、リノリウムの床に撒かれた餌を貪るヤギと肥ったおばさん、その光景を見て私はなぜか吐き気を催した。


もういい、GBロードはもういい。なぜに公団住宅のような建物の二階でヤギを飼うんだ。所詮インドを理解しようなどと無謀な話なのだ。

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